中学生が中二病になれなくなった時代

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もうすぐ30代…優しくあり続けることは難しい。

もうすぐ30代。感性が削がれていく…優しくあり続けることは難しい。

もうすぐ30代…優しくありたい。

なんだか、この数年でとても鈍感な人間になってしまったように感じる。

昔は、世界の反対側の人のことを思って涙が出てきたり、音楽や小説からとても大きな感動を受け取ることができていたのに…。

人一倍、中二病でセンシティブな人間だったはずが、最近ではそんなこともなくなった。

まあ、もうすぐ30歳にもなろうおっさんが世界の反対側の人のことを思って涙を流していたら、それは流石にメンタルやばい人だと思うが…。

それでも、僕は誰かの痛みに敏感で、こんな世の中変えてやると息巻いていた頃のほうがずっと素敵だったように思えて仕方がない。

高校生の頃なんて、友達もいない、家族の中でも浮いている、どこにも居場所がなくて、いるだけで辛くて仕方がない。

でも、若くて、未来に根拠のない期待なんかしながら、心の底から変わってやる、変えてやるなんて思えていた。

今は余裕ができて、欲しいものは大体手に入る。

別に車や家や高級腕時計が欲しいと思うわけでもなければ、地位や名誉もないけれど、それでも僕の想像する欲しいものなんて大してお金のかかるものでもないし、大それたことではない。

友達が欲しいとか、女の子に困らないでいたいとか、日常生活で節約を意識しなくていいくらいのお金や、社会でやっていく能力が欲しいとか、そんなもん。

じゃあ他には何もいりませんなんてことではなくて、もっと高いところに行きたい、そこで刺激的に生きていきたい、刺激的な生活の中にも心から安らげる関係が欲しいとかあって、そういうものを追い求めてはいる。

世の中には辛い思いをしている人がいて、そういう人のために少しでも意味のあることをしたい、それが僕の仕事で僕はそういうやりたいことを思い切りやって生きていたい。

そういう仕事を続けていくためには、お金だったり、地位だったり、能力が必要だと思うから、自分なりに頑張っている。

(頑張っているなんて言えるほどのものはしていないので、頑張っているなんて言葉は使いたくないけど他にしっくりくる言葉がないので…)

でも、本当はどこかでもう幸せを感じてしまっていて、誰かの悲しみや辛さに目を向けなくなってしまっている気がする。

大人になって忙しいから、日常に追われているから…なんてことではない。

誰かの悲しみや辛さに敏感だったころより、今のほうがずっと余裕があるはずなのに…。

そして、誰かの痛みに鈍感になっている自分を受け入れるというか、理解できるというか、許せてしまえる。

それはそれでよいことだと思える。

そうなりたかった。辛くて仕方がないまま生きていたかったわけではない。

抜け出してやると思って唇噛みしめてきたし、余裕をもって自由に生きていたいと思っていたんだから、僕にしては良くやったほうだ。

あんな辛かったころには戻りたくない。

けど、あの頃の誰かの悲しみを救える人間になりたいなんて偉そうなことを本気で考えていた感覚は僕の中に居続けてほしい。

自己満足だとかエゴだとか言われたって、それでも僕はある意味では誰よりも優しかったと思える。

そんな優しさだけあればいい、なんて思えるほど狂気じみた人間性でもないし幼くもない。

でも、なくしてはいけないものだと思うし、僕の中から完全に居なくなったわけじゃない。

だからこうやって嘆いているし、嘆けている。

でも、どんどん小さくなっているのは確かなように感じる。

優しくあり続けることは難しいのだろう。

こんな難しいものだなんて思いもしなかった。

誰も教えてくれなかったじゃないか。

ああ、女の子の痛みに鈍感にだけはなりたくない。

僕は優しくあり続けたい。

目の前の悲しみくらいはちゃんと見つめたい、寄り添いたい。

その先に、世界の反対側にある悲しみがあるのだと思う。

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KKK

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代表中二病社会学会
WEB制作・マーケティングの仕事と並行し、東京都大田区蒲田で「KAKUMEI Burger&Cafe」という中二病感全開の店名のグルメバーガー屋をやってます。