中学生が中二病になれなくなった時代

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27歳(生まれたばかりの子供を置いて海外生活)

僕の27歳の一年間(生まれたばかりの子供を置いて海外生活)

僕の27歳の一年間(生まれたばかりの子供を置いて海外生活)

生後4か月の生まれたばかりの子供を置いて半年間の海外での生活。

妻や、自分の親なんかは僕の人間性を分かっているし、結婚前から決めていたプランだったので否定的な意見は出てこなかったが、妻のご両親からは否定的な意見をいただいたし、それは当然のことだと思う。

不思議なことだけど、自分の選択に対して何の違和感もなかった。

けれど、友人が生まれたばかりの子供を置いて海外で生活しますなんて言ったら考え直したほうがいいと伝えたと思う。

それでも、やはり僕はオーストラリアに渡った。

振り返ってみると、本当に正しい判断だったのか分からない。

ただ、このタイミングしかなかったし、行くしかなった。

帰国した今では、どうしてそこまでこだわったのかと思う部分もあるが、当時はやはり諦めることはできなかったんだと思う。

なぜ、オーストラリアに行こうと思ったのか

そもそもなぜ、オーストラリアで生活したいと感じたのかについても書いておこう。

それは、子供が生まれてから思いついたことではなかった。

23歳の頃(大学を卒業してすぐ)、僕はカナダのトロントという街にワーキングホリデービザで滞在していた。

オーストラリアで生活するというのは、その頃に思い描いたプラン。

カナダワーホリでの生活は、初めての海外生活ということでとても刺激的だった。

同年代の意識の高い日本人の友人に囲まれ、現地の女の子とお付き合いをさせていただき、出来ない英語で周りの人たちに助けられながらなんとか生活をしていた。

レストランで働いたり、本場のハンバーガーを食べ歩いたり、個人でハンバーガーを提供したり、イベントを開催したり、言語交流会の運営をしたりと活動的に過ごすことができ、人生の分岐点の一つになった。

ただ、英語が話せないことや、初めての海外生活で戸惑うことも多く、もっと自分のレベルを上げてもう一度海外で挑戦してみたいと考えていた。

他の国での生活はどんなものなのだろうかなど、好奇心もあった。

「海外生活」なんて一言で言っても、当然国によって文化もスタイルも違うし、そこで何をするかによって見えるものも得られるものも違うわけで、一か国で一年間生活するだけでは満足できないと考えていた。

もっといろいろな価値観や文化に触れたい、ほかの日本人とは違う視点で社会を見ていたい。

思い返せば、強い思いを持っていた。

24歳で帰国し、一年間日本でお金と力を貯めてまた海外に渡ろうと考えていた。

出産からオーストラリアに渡るまで

しかし、人生はそんな計画通りには進まない。

一年が過ぎた時、お金もスキル的にも海外に渡れる状況ではなかった。

そんな時に、子供が出来て結婚をして…ということになった。

妻は出産前まで東京で働いていたが、産休と育児休暇の時期は実家の新潟に帰りたいという話し合いになり、僕はこのタイミングで海外に行くことにした。

東京と新潟で離ればなれになるのならば、オーストラリアと新潟も同じことだという話にはならないが、妻が東京に戻ってきて、育児をしながら家族3人で生活を始めたらもう海外で生活するチャンスはないだろうと思ったし、話し合いの末、妻は海外で生活することを認めてくれた。

子供が無事に生まれ、26歳にして父となった。

26歳の僕は自分の未来に大きな不安も期待も抱えている若者でしかない。

生まれた子供を見て思ったのは、僕は将来この子に何を伝えられるだろうか、何を魅せれるだろうか、そんなことだった。

僕は人生が自由だということを将来話したいと思った。

僕は高校時代、友達もおらず家族ともうまくいかず、どこにも行けない閉鎖的な感覚で社会を眺めていた。

でも、高校を卒業して一人暮らしをはじめ、自分の稼いだお金で大学に通い、仕事をして生活しいくなかで…少しづつ大人になっていくにつれて、世の中はとても自由で自分が望み、努力をし実行することでどこにでも行けることを分かり始めた。

正解なんてわからない世の中で、やりたいことを精一杯考えて努力してつかみ取っていくしかない。

そんな当たり前のことを伝えられたらなと思った。

だから、僕は自分の望むほうに進もうと思えたし、その決断はきっといつか息子にも繋がっていくと信じることができた。

隔週で週末に新潟に行って子供と妻と過ごす生活を4か月ほど続けて、年明けの1月にオーストラリアに渡った。

僕は27歳になっていた。

27歳の一年間について

27歳の一年間について

オーストラリアでの生活はカナダでの生活に比べれば刺激のないものだった。

英語で困ることもなければ、生活にカルチャーショックを感じることもない。

WEBの勉強をしたり、仕事したりしながら日々を過ごし、夜はシェアハウスのメンバーとバスケをして過ごした。

時間があるときは一人でビーチでのんびりと考え事をしていたが、何について考えていたのかはもう思い出せない。

到着後すぐは毎日のように日本にいる妻と子供とビデオ電話をしていたが、時間が経つにつれて週一くらいに減ってしまったがどちらからも不満が出ることはなった。

そんなものなんだろう。

半年間のオーストラリア生活から日本への帰国途中に、一か月ほどかけて東南アジアを旅した。

東南アジア旅では短い期間ながら、これまで経験したことのなかった多くのものに触れ、とても良い経験になった。

家の契約などもあり、家族3人での生活がはじめられたのは帰国してから1か月ほど経ってからだった。

その間は、東京で一人で過ごす僕は住む家もなく、多くに友人の家でお世話になりながら、ふらふらと過ごしていた。

3人での生活が始まっても、なぜか僕は仕事も始めずに家具を揃えたり、育児をしながらのんびりとすごしていた生活が続いた…。

なんだか、家族3人での生活に馴染めず、違和感を感じながらのニート期間を3か月ほど過ごした。

その間の生活費は妻が面倒を見てくれていたし、本当にダメな旦那だと思う…。

1-5月 オーストラリア
6月 東南アジア旅
7月 友人宅をフラフラ
8-10月 育児ニート  
11月 仕事開始~

オーストラリア到着後は仕事を始めるまで1か月ほどフラフラしていたし、思い返せば一年間のうち半分も仕事をしないでフラフラしていた。

思い返してみても「やべえ奴」だと思う。

けど、すべて必要なことで間違いではなかったように感じてしまうのは、僕の恐ろしいところだ。

見えてきたものと変わったこと

見えてきたものと変わったこと

この一年間で得られたものは何だったのだろうか。

海外で生活することに自信を得ることができたし、どこででも生活できるように感じた。

それは一つのテーマだったし大きな収穫だろう。

また、英語やWEBのスキルも伸びたとは思うけど、まあたいしたことではないだろう。

ただ、そこに関しては海外でなくとも日本で英語の勉強を頑張ってWEB系の企業で働いていれば得られるもの。

そんなものがどうでもよくなるくらい変わったことがあった。

本当の意味で得られたものも変わったことも、もっと抽象的なものだったと思う。

それは、焦りというものがなくなったということ。

思い返せば、僕は気付けばずっと…いつも見えないものに追われている感覚だった。

もっと頑張らなくてはいけない、抜け出さなければいけない、もっと上に上がっていきたい、そして誰にでも誇れる明確な「何か」を得なくてはいけない、そんなことばかり考えていた。

今は、良くも悪くもいろいろなものを捨てて、身軽になった気がした。

とても抽象的な一年間だった気がする。

そしてその抽象的で、はっきりと言い切れないモノの受け入れられるようになったこと、そんな抽象的な毎日の繰り返しを満足できるようになったことこそが、ただ嬉しい。

同時に多くの気苦労をかけてしまった妻には本当に頭が上がらない。

中二病が親になると妻は苦労するものなのかもしれない。

僕はこれから、しっかりと毎日を受け入れていけるような気がしている。

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KKK

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代表中二病社会学会
WEB制作・マーケティングの仕事と並行し、東京都大田区蒲田で「KAKUMEI Burger&Cafe」という中二病感全開の店名のグルメバーガー屋をやってます。